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原発と事故

江戸の火事

「火事と喧嘩は江戸の花」という言葉が残り、現代では「火災都市」と呼称されるほど、頻繁に発生した。
大火が頻発し、都市の広大な市街地を繰り返し焼き払った史実は、世界でも類例がないとされる。
江戸の火事は祝融や回禄とも呼ばれ、大火の様相を紅葉に見立てることもあった。
「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「丙寅(ひのえとら)の大火」を江戸の三大大火という。
明暦の大火
1657年3月2-4日
振袖火事。死者最大で10万7000人。本郷丸山本妙寺はじめ山の手3箇所から出火し、両日とも北西風により延焼。江戸の大半が被災し江戸城天守も焼失した。江戸時代最大の被害を出した大火。幕閣の重鎮であった保科正之が資金を市街にと、以後、江戸城天守閣は再建されず。日本橋吉原も全焼、浅草へ移動。江戸の都市計画や消防制度に大きな影響を与えた。
天和の大火
1683年1.25-
八百屋お七の火事。死者830–3500人。駒込大円寺から出火し、北西風により延焼。焼失した武家屋敷241・寺社95。
明和の大火
1772.4.1
行人坂の火事。死者1万4700人行方不明者4060人。目黒行人坂大円寺から出火し、南西風により延焼。焼失した町904。この大火ゆえ「明和九年」は「めいわ九の年」(迷惑の年)と揶揄され、「安永」と改元された。
文化の大火
1806.4.22
丙寅の年に出火したため、丙寅の大火とも呼ばれる。通称車町火事・牛町火事。死者1200人。芝車町から出火し、南西風により延焼。焼失した町530・大名屋敷80・寺社80。

改革と対策

田沼意次の改革

側用人となった1767年(明和4年)から失脚する1786年(天明6年)まで。
江戸幕府の財政難を打開するために、商業を重視し、経済を活発化させる政策を打ち出したものです。
株仲間制度の奨励
商業者の組合である株仲間を奨励し、彼らに特権を与え、代わりに税を納めさせました.
専売制の拡大
幕府が直接的に商売をする専売制を拡大し、幕府の収入を増やしました.
外国貿易の推進
ロシアとの通商交渉など、外国貿易を積極的に推進しました.
通貨制度の改革
銀貨を中心に通貨体制を統一し、通貨を使いやすくしました.
殖産興業
印旛沼・手賀沼の干拓など、社会資本整備も行い、農業の発展を促しました.
しかし、過度な商業主義や、賄賂政治などが批判され、農民は苦難に苦しみ、一揆も頻発。天明の大飢饉や洪水によって、その改革は失敗に終わった。

江戸の3大改革

享保の改革 (1716年 - 1745年)
8代将軍徳川吉宗が実施。幕府の財政再建と庶民生活の安定を目的に、倹約令の制定、新田開発の奨励、目安箱の設置、大名から米を上納させる「上米の制」などが実施されました。
寛政の改革 (1787年 - 1793年)
松平定信が実施。田沼意次の政治による腐敗を是正し、幕府の財政再建を図るため、緊縮財政。重商主義から重農主義への転換する「囲米の制」などが実施されました。
天保の改革 (1841年 - 1843年)
水野忠邦が実施。幕府財政の再建と社会の安定を目的に、倹約令の実施、風紀粛正、株仲間解散、人返し令などが実施されましたが、商人や譜代大名からの反対によって、わずか3年で失敗に終わりました。

戦争・内乱・テロ

朝鮮出兵
豊臣秀吉が1592年から1598年にかけて、明(中国)の征服を目的に朝鮮に対して行った侵略戦争。
文禄の役
1592年5月24日-1593年8月5日
朝鮮半島全域、満州・豆満江一帯
小西行長と沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。
死者:日本側約21,900人以上。朝鮮側は約36,000人
慶長の役
1597年3月1日-1598年12月22日
朝鮮半島三南地方
武将:小早川秀秋(総大将)、加藤清正、小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島玄雅、黒田長政、毛利勝信・毛利勝永、島津忠豊
朝鮮と明の勝利。豊臣秀吉死去で日本側の全軍が帰国[9]。講和せずに豊臣政権が瓦解した。
島原の乱
1637年12月11日〜1638年4月12日
島原・天草地域で引き起こされた、百姓やキリスト教徒を主体とする江戸幕府への大規模な武力闘争事件で、島原藩主の松倉勝家が領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てを行い、年貢を納められない農民、改宗を拒んだキリシタンに対し熾烈な拷問・処刑を行ったことに対する反発から発生した、大規模な農民反乱である。
過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃後。有明海を渡って島原半島に移動し、島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、総大将の天草四郎の下、37,000人程であったといわれる。
幕府軍の勝利。幕府より一揆惹起の責任を問われ、松倉勝家の改易斬首、寺沢堅高の天草領没収された。
大塩平八郎の乱
1837年(天保8年)に、大坂(現・大阪市)で大坂町奉行所の元与力大塩平八郎(中斎)とその門人らが起こした江戸幕府に対する反乱である。
戊辰戦争
鳥羽・伏見の戦い
1968年1月27日(慶応4年1月3日)、旧幕府軍と新政府軍との戦い「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の初戦です。
現在の京都市南区・伏見区にあたる、山城国 鳥羽・伏見で1868年に起こったこの戦いから1年4ヵ月もの間、日本の内乱である戊辰戦争は続きました。
日清戦争
1894年-1895年4月、
日露戦争
1904年-1905年9月、
米騒動
1917年(大正6年)のシベリア出兵や、大戦の影響によって米の輸入量が減少したことも米価上昇の原因となった。
大阪堂島の米市場の記録によれば、1918年(大正7年)の1月に1石15円だった米価は6月には20円、翌7月17日には30円を超え、さらに伊勢の相場師・福寅一派の買いあおりや地方からの米の出回り減少で、8月1日には1石35円、同5日には40円、9日には50円を超え、各地の取引所で立会い中止が相次ぐ異常事態になった。一方で小売価格も7月2日に1升34銭3厘だった相場が、8月1日には40銭5厘、8月9日には60銭8厘と急騰し(当時の労働者の月収が18円 - 25円)、世情は騒然となった。
9月1日に「暴利取締令」を出し、米など各物資の買い占めや売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。
1918年7月18日富山県魚津市にて、一揆が発生。約50日間にわたる一連の騒動は、最終的に1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された。
年末には米騒動当時の価格まで上昇したが、国民の実質収入増加によって騒動が再発することはなかった。
満州事変
1931年
二・二六事件
1936年、陸軍の青年将校に率いられた1500人ほどの部隊が、天皇の側近や大臣を次々と殺害し、首相官邸や警視庁などを占拠したのが2・26事件です。
2月26日に発生したことから、この名があります。将校たちは、軍主導の国家改造を求めましたが、昭和天皇の怒りを買い、3日後に拘束されました。
のちの裁判(軍法会議)で、将校たちは、陸軍上層の一部が部隊の行動を容認していたとして強く反発しましたが、17人に死刑の判決が下されました。
オウム真理教事件
1988年〜1995年。
教団と敵対していた弁護士一家殺害、信者・元信者へのリンチ殺人や信者家族の拉致監禁殺害を繰り返し、毒ガスを使った松本サリン事件や地下鉄サリン事件等のオウム真理教事件を発生させた。
教祖の麻原彰晃や信者の大半が20代・30代の若者であるなど、他宗教と比較して年齢層の若い組織であった。
一連のオウム真理教事件における被害者数は、死者47人、重軽傷者6600人以上。元教団幹部ら13名の死刑。
1994.6.24 松本サリン事件
1995.3.20 地下鉄サリン事件(死亡14人負傷者数約6,300人)。
1995.5.16 上九一色村の教団施設内でオウム真理教教祖麻原彰晃(当時40歳)逮捕。
2008年 連続無差別殺人事件
3.19-23 土浦連続殺傷事件 (茨城県土浦市)、被疑者24歳男 2人死亡/7人負傷
3.25-4.14 福岡連続殺傷事件 (福岡県福岡市)、被疑者25歳男 1人死亡/1人負傷
6.8 秋葉原通り魔事件 (東京都千代田区)、被疑者25歳男  7人死亡/10人負傷
7.22 八王子通り魔事件 (東京都八王子市)、被疑者33歳男 1人死亡/1人負傷